10月11日午前10時




好きな色というのは、その人のイメージに深く関わってくると思います。何かと自分というものを表す手段として、色を使います。自分はこんな色がすき、以外にも、誰かにわたしは何色っぽい?と聞いてみたり、または誰かを色に例えたり。

色そのもののもつイメージというとのは、豊かにみえてある程度の共通認識みたいなものがある。それは幼少期から意識的にせよ無意識的にせよ教えられてきたものなのか、人が最初から持ってるいる感覚なのかはわかりません。でもまあ、森や木が緑だから、自然という概念も緑になるのは当然の連想ゲームですよね。でも、平和、愛、友情、だとかたとえばそんなものに、色がつくのってたのしい。そしてそれが、ある程度の説得力をもつことが素敵。

おもしろいのは、対象の色そのものと、色のイメージは完全に一致しないということ。火は赤い、けれど、赤いのは必ずしも火ではない。むしろ赤が表すのは、概念やイメージであって、具象的なものではない。このことを、箕面にいったときに友人が教えてくれて、すごく興味深かったです。目にみえる色は、それ自体に無数のイメージを内包するけれど、というよりもむしろ色が表現しているのはそのひとつひとつのイメージなのでしょうね。

だからわたしたちは、好きな色を選ぶときに、目に見えるその色と同じくらい、その色があらわすイメージを愛しているはず。それは嫌いな色にも同じことがいえて、むしろそっちの方がわかりやすいかもしれないけれど、嫌いなのは色そのものもではなくそれに付随するイメージです。当たり前のことだけどね。

なにがいいたかったというと、わたしは好きな色が変わったんです。生きていく上で、はっきりと覚えてる。それは自分への性イメージが顕著に現れてるんだと思います。幼少期は兄のおさがりばかりで、ずっとズボンをはいてメガネでショートカット、よく男の子に間違えられていました。女の子のくせにって言われるのが何よりも嫌いで、自分が女の子なことが嫌だった。だからいつもピンクじゃなくて水色を選んだ。これは別に水色がすきだったわけではないと思うんです。女の子っぽいことを嫌悪するのと同時に、女の子っぽくなれない自分が嫌だったんだと思います。そしてその次はほんとに少しの間だけど、黄緑色にはまった。わたしは好きになった色で、身近な小物をかためてしまう癖があるので、余計なのかもしれないけど。そしてその次は、なんとピンクが何よりも好きな色になったんですよね。
そのときわたしは女としての自分を肯定しようと躍起になっていた気がします。自分の性イメージと、誰かからみたときの性イメージとのギャップを埋めようと必死だったし、男の子っぽい自分が嫌いだった。女の子らしいことに憧れていた。そして今は水色がすきです。ピンクもすきですが、どちらかで選ぶのは水色です。わたしのイメージするような、女の子にはなれないってことに諦めがつきました。ピンク色の女の子にはなれないし、オレンジ色の女の子にもなれない。そんな彼女たちをみるととても羨ましくて、眩しくて、きれいだと思うけれど、わたしは今、水色がすきです。また変わるのかもしれません、でもそれでいいや。






sweet spider / indigo la End