9月23日午前8時




楽しいとさみしいは同じです。楽しければ楽しいほど、さみしい。同じように、好きになればなるほど、悲しい悔しい。感情というのは、誰かに教えてもらった仕方や言葉をもってはじめて名前がつくのであって、言うなれば分類のしようのない感覚的な何か、なんですよね。だから、自分の少し上の人たちの音楽を聞いたり本を読んだりする。自分のこの得体の知れない感覚がなになのかを理解するために、または理解してもらうために。

だから逆に言えば、解釈次第なんだと思います。自分の気持ちも誰かの気持ちもどんな出来事もなにもかも。意味付けも解釈も後から勝手にするものだから、すべてが因果律に回収されるわけではないから。出来事を分析する科学的な思考の方法も大切だけれど、後からあーだこーだ理論や理由付けする哲学的な思考の枠組みもやっぱり必要だと思います。さらにいっちゃえば、ときにはそれすらも包括的に理解する宗教的な発想も必要なんだってことです。少しでも生きやすくなるように解釈すれば、それでいいと思います。

自分を語る名乗る形容する。そうすることによってどんどん自分から離れていく気がするし、あるいはそれを自分だと思い込んで頑なに守ろうとしてしまう。環境によって変化するのは当然で流動的なものだと思います。なぜなら、ありのままや個性なんて神話のようなものだから。つぎはぎだらけの思考に、自分だけのオリジナリティなんて、そんなことはあり得ないんです。アイデンティティは確立されるべきものではない、発生が約束されてる事実ではない。意味付けに過ぎないんです。敏感に日々知覚して思考し得体の知れない欲望や情念に支配されるような、この何かに、意味をつけると。そのわたしがいまここに生きていて、誰かと関わって生きているということ、その存在に意味付けするということ。自分にとっても誰かにとっても、それが大切なことなんだと思います。

わたしが胡散臭いのは、こういうことを考えてるから、日常的な会話が浮ついてつかみどころのない本当はなにを考えてるかわからないような、人を不安にさせてしまうところにあるんじゃないですかね。あとは技術的な気を使い過ぎて、人が身構えてしまう。すみません、優しくしたいだけなんです。例えばこれを読んでくれたあなたが、存在しているという出来事が嬉しいんですけどね。よくわからないですかね、書いてる途中なのにまた諦めそうになってしまっている。むむむ。わたしにはカント的な技術的な世界と精神的な世界があるんです。具象的次元での事象はいつまでたっても苦手です。学習してテクニックは覚えていくけれど、煩わしいことは苦手です。この感じが人をさみしくさせて弱らせていくんだろうな。たまにお前は冷徹だといわれます。少しでも暖かい人になれればと思ってるんだけどな、難しい。


人はただ存在するだけで価値があるのか、という長年の疑問には暫く答えられそうにありませんが、そのテーマに挑む友人の卒論が楽しみで仕方ないです。


今から軽音の合宿なのに、なにをゆっているんだか。いってきます。




fake street / indigo la End