9月16日午後9時

 

 

今日はずっとねむいですね。こんばんわ、松本です。

 

自分のことを人に話せば話すほど、その内容は自分からはなれて行くような気がします。わたしはきちんと言葉を使えない。誰かに何かをきちんと伝えることができるほどの語彙力がない。それがもどかしいので、できるだけ正しい日本語を使いたいと心がけてみては、失敗を繰り返しているような。けれど同時に、正直でいることだけが正しいことではないとも思います。わたしたちが言葉を使う時、きちんと自分と同じように受け取ってもらえることって滅多にない。言語が違う人なら特にそう。そのすれ違いや差異に、わたしたちは苦しんだり心を痛めたりするのだと思います。でもそこにうまれる誤解こそが愛情の正体だったり、話すたびにうまれてくる矛盾こそが自己なんじゃないですかね。

自己を確立するというアイデンティティの神話に、どうも踊らされすぎているような気がします。青年期に確立すべき自己なんて、本当にあるんですか。成長社会の生み出した物語だっていわれてるんですよ。みんなが馬鹿にする宗教と一緒で、はやりの自己認識ってのがある。結局は、流動的で感覚的な知覚のひとまとまりがわたしだって、それだけなんじゃないかと思います。空虚で感傷的なもの。それは身体に依存していて、なおかつ独立した何か。心身の感覚にずれのない人のことを「健康」とよぶのではないかと感じますが、わたしはどうやらその一体感に薄いんだろうな。だからその感覚を得られるような、全能感に満ちた瞬間が好きって前にここに書いたな。

 

誰かや自分のことを「中身がない」って違和感なくいうひとは、身体を器として精神があるっていう前提があるんだろうな。祖父が家族に囲まれて息を引き取る瞬間、彼の身体から何かがでていくような感じがしました。その後の身体をどうこうしてるのを見て、ああ身体は本当に器なんだなって。わたしは特的の宗教を信仰している訳ではありません。祖先崇拝もあるようでなく、いんちきの自分の感覚と宗教の慣習的知識をごっちゃにしたような、なんとも日本人らしい宗教感覚で生きています。その中でそう感じたということは、わたし個人が「不健康」だからこその身体認識なのか、万人に共通するような、それこそデューイのような「宗教的なもの」なのか。日本語としてあるということは、デカルト以来の二元論の影響を受けた後にできた発想なのか、それとも感覚として自然なことなのか。人間の身体性の回復がはやってるということからなにが読み取れるのか。うーん。何の話がしたいんだろ。

とりあえず卒論に向けて本を読まないといけないんですよね、こまったね。

 

そんなことよりものすごく服飾類が欲しいんですよね。最近頭の中そればっかりな気がします。おしゃれではないけど、服はたぶん本当にすき。FREDRIK PACKERSのオリーブのリュックが欲しい。素敵な風合いのノーカラーのシャツが欲しい。それにしてもナラソニでのオサレ大魔王の服装はすばらしかったな。あの水色のシャツにスキニージーンズの組み合わせ、ああ、ため息。そんでもって、最近はやりの黒のニット帽の女の人が大好きです。でもわたしがすると、これじゃない感がすごいんだなあ。だいすきなおしゃれパイセンが彼氏さんと旅行してはる時の装いがたまりませんでした。あの方は本当にわたしのどつぼのセンスのおしゃれさんで、ぜひ彼女のムック本を企画して編集したい。

ムック本でもファッション誌でも、ちょっとした紙面の文章は読まずにいたのですが、出版のインターンにいってすこし注視するようになりました。なにげない一文にも、誰かの想いがつまっている。少しでも、誰かに届くような言葉を使えればいいなと、たくさんの文章を読むなり書くなり話すなりして、精進したいです。不用意に誰かを傷つけてしまわないようにしなければ。

 

わたしって話をそらす達人なんじゃないのか。困った。

 

友人がナラソニでコピーしているのを聞いて以来大好きなBGMを添えて。こういうのがきっかけで好きになった曲ってたくさんだな。コピバンのよさってこういうところにあると思うし、元のアーティストじゃなくて、また彼らの演奏を聴きたいなって思う。そういうのも、いいよね。

 

 

 

ストレンジカメレオン/the pillows